【ただ唯一の】


戦で大敗を喫した。

己が天幕の中で。
殿軍を務めた呂蒙は、暗闇の中、静かに呼吸しながら膝を抱えた。




戦場に出て命を失わなかった日はなかった。
最小限の被害でも、どこかで誰かが、死んでいく。

敵の追撃の猛攻は激しく、呂蒙の率いる兵たちが次々と犠牲になるのを、呂蒙は見ていた。
見ているしかなかった。




命は泡だ。
弾けて、消える。
瞬きのうちに、もう、どこにもない。




解っていたことだ。
戦場に出るということは、そういうことだ。

人がまるで、虫けらのように、畜生のように、死んでいくのだ、ということ。

若い時分から戦場に出ていた呂蒙にはそれはどう引っくり返しても揺るがない事実だった。




「おっさん」




暗闇の向こうから声がした。
ここで自分をそう呼びつける男は、ひとりしか知らない。

「……興覇」

撤退において思わぬ苦戦を強いられた呂蒙軍の援軍として現れたのが、甘寧だった。
追撃してきた軍を退かせられたのは、この男のおかげだった。でなければ、今頃自分もまた兵たちのように死んでいただろう。

「明かり、つけねえのか?」
「ああ……このままで、いい」

今日は月も星も厚い雲に覆われて見えず、暗闇がいっそう深い夜だった。
あちこちの天幕では明かりが灯されていたが、呂蒙のところだけは真っ暗だった。普通ならばもう就寝したととってもおかしくはなかったが、呂蒙が起きていながら明かりをつけないだろうことを甘寧は理解していた。

「……今日は、お前が来なければ、危うかった。感謝する」
「気にすんなよ」
「……」
「あんたが無事なら、それでいい」

呂蒙は顔を上げる。
目の前にいるだろう甘寧を見た。
夜に慣れた目がそこに、人の顔を映し出す。

でも何故か。
彼の表情は読み取れなかった。

「あんたはきっと怒るだろうが。言うぜ。……俺にとって一番大事なのは、あんただけだ。それ以外がどうなろう知ったことじゃない」
「……」
「何千、何万の人間があんたを生かすために犬死にしようと、どうしようと。あんただけが生きてくれてたら、後はどうだっていいんだ、俺は」

不意に顔を掴まれた。
暖かい手のひらが包むように呂蒙の頬に触れて、挟むように。
そして熱い何かぬめったものが、目尻にそっと這わされた。

「泣くなよ」
「泣いてなど、おらん……っ!」
「可愛いな、あんたは。目、濡れてるぜ?」

触れられたのは、甘寧の舌先、そして唇。
ちゅっと吸い上げるような音を立てて、頬を滑っていくものを止めた。

右目を丹念に。
それから左目に。
やがてこめかみを愛撫するように。
続いて額に。
解かれた髪を掻きあげて、耳に。
輪郭を舌でなぞる。ぞくりとした、時々触れる吐息すら熱い。

「なあ……俺の考え方は、あんたにとっちゃ、不快か?」
「……」
「どんだけ味方を犠牲にしても、あんただけを助ける、あんただけを生かすっていう俺は、武将として失格か?」
「……」
「子明」
「……っ」

耳朶を唇で甘く吸った後、顎を伝って、首筋へ。
喉仏に軽く歯を立てる。
つっと背後に回って、長い髪を無造作に上に持ち上げられ、露になった項に口付ける。

ぞわり。
背筋に走るもの。

「あんたが死んだら、俺も死ぬ」
「こ……はっ………」
「この世で俺にはあんただけだ。あんたがいないところになんざ、用はねえ」

異常な執着心、とは思わなかった。
甘興覇という男は、最初からずっとこういう男だったからだ。

浮き出た鎖骨を指先でなぞる。
皮膚の上をただ骨の形に沿って滑っていくだけなのに、ぞくぞくとする刺激を感じる。

「子明」
「……興、覇」
「子明」
「……興覇」

ぎゅうっと体を抱きしめた。
たまらずに。




彼のように、『自分のすべては、この世のすべては、ただ一人のため』、だとは言えない。
呂蒙には、この国で大事なものがたくさんあり過ぎた。
護りたいものがたくさんあり過ぎた。
それ全てを捨て去れるほど、自分は強くない。

だが心の奥では、常にその想いはあった。




この先、たとえ何があっても。
お前さえいれば、俺は構わない。




「……興覇……」




一生伝えることの叶わない言葉を、囁くような名前に乗せて。
ただ、愛おしい男の体を強く強く抱きしめた。












-感想-

空想の世界観というサイトを開いている、紫狼さんからいただきました。

ちょ、ちょっ!!
見てくださいよ!!この見事なまでのシリアスでちょっと大人の雰囲気漂わせた小説を!!
弱った呂蒙さんとかっこいい甘寧!!
ウチのサイトの甘寧も見習わせなきゃ(ぇ

この小説読んで、(シリアスな話なのに)テンション上がりっぱなしでした(マテや
紫狼さん、本当に有難うございました!!
そして、ご馳走様でしたw