いつの日か、奴の娘が言っていた。
「私のパパは、野良猫みたいな人なんですよ」と。
確かに、あいつは野良猫みたいになっちまったが…
野良猫でも、俺のコネコには変わりないんだぜ?
Sweet coffee
暦上では、もう冬になっているこの季節。
今年はそれにあわせて、一気に冷え込んできたと思う。
コートを羽織り、ポケットの中で自宅の鍵を弄ぶ。
自分の部屋番号近くまで行ったとき、ドアの前でうずくまっている人影を見つけた。
「……おいおい、コネコちゃん…そんなところで寝て、風邪ひいても知らねぇぜ?」
「あー……ゴドーさん…お帰りなさい…」
遅いですよ、と眠そうに呟く奴の手を取り、起こすのを手伝ってやる。
まるほどうは眠そうに目をこすって、地面と接していた尻のほこりを軽くはたいた。
「おいおい、ずいぶん冷たい手ぇしてるじゃねーか…」
「んー………、あ、そういえば……もう二時間くらいここに居ることになるのかなぁ」
「……馬鹿か、お前は」
「いいじゃないですか。僕が好きでやったことなんですから」
大きなあくびをしながら、まるほどうはだるそうにそう言った。
まったく、と、俺はため息をついて、冷え切ったまるほどうの体を抱き寄せてやる。
奴も俺の体温が暖かいのか、抵抗はしなかった。
……昔は手をつないだだけでも、顔を真っ赤にして怒ったものだが。
まぁ、昔は昔。今は今…だ。
温室育ちのコネコが、飼い主の元を離れて野生化したとでも思うことにしよう。
「ホラ、早く中に入るぞ。ちょっと退いてな」
部屋の鍵を開けるために、俺はポケットに再び手を突っ込んだ。
まるほどうもおとなしく俺から離れるが、邪魔にならないギリギリで俺に寄り添う。
そんな奴の姿を見て、可愛いなんて思っちまう俺は相当末期だな、と思った。
扉が開き、俺は電気をつけてまるほどうを中に促した。
相変わらずすごい部屋ですよねぇと、感心しているのかしていないのかよく分からない口調で奴は呟いた。
そして真っ先に、まるほどうは自分の特等席である黒色のソファに身を沈めた。
俺はそんな奴の姿を見てから、キッチンに入って二つ分のマグカップを用意する。
コーヒーの準備が整い機械のスイッチを押すと、コポコポという音と共に、コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐる。
できたコーヒーをもって、まるほどうがくつろいでいるリビングへと運ぶ。
ソファでごろごろしていたまるほどうは、俺の姿を見るとゆっくりと身を起こした。
「あ、今日はゴドーブレンド70号ですか?」
「残念だったな。よく似ちゃぁいるが、83号だぜ」
「あぁ、そういえば似てましたよね。惜しい」
「もう少し豆の勉強して出直しな」
「ひっでぇ」
笑いながら、俺はマグカップをまるほどうに渡す。
有難うございます、と、奴は微笑んでそれを受け取った。
暖かいマグカップでしばらく手を温めたあと、まるほどうは一口すする。
「んー、やっぱり少し苦いですね。ゴドーブレンド83号」
「そうかい?まだ甘いほうだぜ」
「味覚がおかしいんですよ、ゴドーさんは」
むー、と、膨れるまるほどうの頭をなでてやる。
なんだかんだ言いながらも、結局まるほどうは最後の一滴まで、俺のブレンドコーヒーを味わっていた。
相変わらずの甘党のまるほどうだが、昔に比べて大分俺の味覚についてこれるようになった。
だから、少しずつ少しずつゴドーブレンドまるほどうスペシャルを淹れる機会が減っていった。
まぁ、あのコーヒーは俺にとっては甘ったるい分類に入るわけで。
甘いのが苦手な俺を気遣ってなのかかも知れないが。
あのコーヒーは、何度も淹れると少し気分が悪くなる。
甘い匂いが鼻につくからだ。
けれど、あの匂いもしばらく嗅いでいないと不思議と愛しくなっていくわけで。
我ながら矛盾している、と、小さく笑った。
まるほどうから空になったマグカップを受け取り、俺は腰を持ち上げる。
おそらくこの後、コイツは腹が減ったとか言い出すだろうから、
俺のコーヒーをもう一杯入れるついでに何か軽いものでも出してやろうと思った。
俺がキッチンに向かおうとした時、まるほどうが俺の腕を引いて引き止めた。
「……なんだい、コネコちゃん。今から何か作ってやるから、離しな」
「ねぇ、ゴドーさん」
まるほどうは俺の腕を離さずに、いたずらっぽく笑った。
「僕、久しぶりにゴドーブレンドまるほどうスペシャルが飲みたいです」
その言葉に、俺は少しばかり驚いた。
俺が久しぶりにあのコーヒーを淹れたいと思ったことを、コイツは読んだのだろうか。
それとも、顔に出ていたのか…
まぁ、そんなことはどうでもいいか。
ただの偶然かもしれない。
偶然じゃなかったとしても、俺のやりたいことをやらしてくれようとするこいつの優しさなんだと、そう思おう。
「クッ……まかせな。とびっきり美味いのを淹れてやるぜ」
そして、部屋には懐かしい甘い匂いが広がった。
end.