あぁ、今日もまた
あの音が聞こえる。
それは波のように押し寄せてきたかと思うと、
突然、すーっと引いていく。
あぁ、また。
今日もあの音が聞こえる。
N o i s e
やっと、本格的な眠りに入ろうとしていた時だった。
幾重にも重なった雑音たちが、僕の耳にこれでもかというほどなだれ込んでくる。
無視して寝ようにも、それが気になって仕方がない。
僕は仕方なく、その身をベットから無理やり起こした。
時計の針を見ると、その針は5と、3を指していた。
まだ正常に働いていない頭でなんとか考えて、それが<早朝の5:15>を示していることを理解する。
あぁ、そうか。
昨日の雑音がなくなってから、まだ2時間しか経ってないんだ。
また今日も眠れなかったな、と、まるで他人事のように思った。
…みぬきちゃんは、大丈夫だろうか?
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
彼女がこの事務所に来てから、もうすぐ一週間経つ。
あんな事件があって、父親を突然失って……
まだその傷も癒えていないだろうに、こんな毎晩毎朝こんな雑音に囲まれて。
あんなに小さい女の子には、あまりにもひどすぎる仕打ちではないか。
けれど、彼女にさらに追い打ちをかけるこの雑音たちは、すべて僕に向けられていることを思い出した。
彼等報道陣は、僕の話を聞きたがっている。
………そうだ。
すべて、僕のせいなのだ。
彼女が父親を失ったのも
この雑音も
何もかも
僕の、せい……なのだ。
僕は泣きそうな目を押えて、なんとか涙をせき止めた。
泣いている場合ではない。
彼女に、また叱られてしまう。
また、余計な心配をかけてしまう。
ようやく涙が止まったとき、後ろから背中を軽く叩かれた。
「もう、パパ!起きて!早く朝ごはん食べよう?」
僕が振り返ると、みぬきちゃんはそう言って笑った。
「パパ、もうこの一週間、ろくに食べてないでしょ?みぬき、サンドイッチ作ったんだよ!」
「あ……、えと……みぬき、ちゃん…?」
「だーかーら、みぬき≠ナいいってば!もう、何度言ったらわかるかなぁ」
ぷい、と、顔をそむけたかと思うと、
林檎のように赤いほっぺを、ぷっくらと膨らませた。
そんな彼女が愛おしくて、僕は彼女の頭をできるだけ優しくなでた。
「はは、ごめんよ。みぬき」
「そう!それでいいの!」
彼女の言うとおりにすると、さっきとは打って変わって満面の笑顔になった。
それがうれしくて、僕は何度も彼女の名前を呼んだ。
彼女もまた、僕の呼びかけに答えてくれた。
名前を呼べば、返事が返ってくるという喜び。
それはあたりまえのことだけれど、
今の僕にとっては、これ以上にうれしいことはなかった。
名前を呼んでも、それは届かずに空へと吸い込まれる。
一方的な思い。
彼の名前を呼ぶことが、何よりも苦痛だった。
それでも、返事が返ってくることはないとわかっていても、
必死で彼の名前を呼んでしまう自分が情けなかった。
……結局、僕は一人では生きられない、弱い人間なのだ。
今でも、血は繋がってないにしろ、みぬき≠ニいう娘の存在がなければ、
きっと僕は壊れてしまっていただろう。
僕を救ってくれた可愛い天使は、いいものあげるねと僕に笑いかけて、
懐から真新しいパンツを取り出した。
僕はそんなパンツははかないよと言ったら、これはみぬきのマジック用のパンツなの!と怒られた。
そしてみぬきは自分の口でドラムの音を言いながら、パンツに手を突っ込んだ。
じゃん!という威勢のいい効果音とともに取り出されたのは、パンツと同じ色のニット帽だった。
「へへ、すごいでしょ?みぬきの手作りなんだよ!」
みぬきは得意げにそういった。
たしかに、手編み独特の網目と網目の隙間がある。
決して見栄えはいいとは言えない。
けれど、そのニット帽には、彼女の愛情がいっぱいに詰まっていた。
「パパ、最近お外の人たちにいっぱい質問されて疲れてるみたいだから……」
「ほら、パパってすごく特徴的な髪型じゃない?だからきっと、どこへいってもあの人たちが付いてくると思うの」
「だからね、それがあればきっとパパも楽になるんじゃないかなぁって」
僕は、渡されたニット帽をじっと見つめたまま、みぬきの話を聞いていた。
みぬきはそんな僕の様子をみて不安に思ったのか、
僕の顔を覗き込んで、気に入らなかった?と小声で聞いてきた。
僕はそのニット帽に顔を埋めて、首を振った。
こんなに素敵なプレゼントをもらったのは、初めてだった。
ありがとう、ありがとうと何度もみぬきにお礼を言った。
お礼を言うたびに、ニットが湿っていくのがわかった。
今度は、みぬきが僕の頭をなでてくれた。
その手が、とても温かかった。
ちょっと湿っているニット帽をかぶって、タンスから引っ張り出したパーカーをはおる。
そして僕はここ数日開いていない扉に手を伸ばした。
扉を開けると、雑音は一斉に僕に光を浴びせて、マイクや録音機のようなものを向けてきた。
相変わらず僕に質問を投げかけてきたけれど、その質問はいつもとは違うものだった。
成歩堂法律事務所の方ですか?成歩堂さんは今、中にいるんですよね?
この成歩堂さんはどこにいらっしゃるのですか?
あなたと成歩堂さんはどういった御関係なのですか?
だいたい、こんな質問だった。
みぬきのくれたニット帽の効果、すごいなぁとか、
本当にみぬきは魔法使いなんじゃないかとか、そんなことをぼんやり考えて、
僕は報道陣に向きなおった。
そして、一言。
「弁護士、成歩堂龍一は、死にました」
それから、
雑音が僕らの事務所に群がることは、無くなった。
end.