"あか"の無い世界で
あの人は生きている
あ か い せ か い
今日は厄日かもしれない。
朦朧とする頭で、そんなことを考えた。
今日の客は最悪だった。
多分、ポーカーの腕に相当自信があったんだと思う。
おまけに無駄にプライドが高くて、『勝つ』ことに執着しているようだった。
けれど、その客は僕との勝負に負けた。
散々「イカサマだ」とか、「俺が負けるはずはない」とか、言い散らした後
言葉にならない奇声を上げて、僕に襲い掛かってきた。
こういう客は、まれにいる。
その客が始めてのことではなかったから、案外僕は落ち着いていた。
そして、僕は助けを呼ぶために、思いっきり叫んだ。
………それがいけなかったらしい。
多分、そいつは僕の叫び声を止める事しか考えてなかったんだと思う。
懐から銃を取り出すと、僕に向けて引き金を引いた。
僕の制止の声は、その轟音にかき消される。
しかし、幸か不幸か………銃弾が僕の急所に埋まる事は無かった。
相手も相当気持ちが高ぶっていたのか、正確に僕を狙えていなかったらしい。
そして、その銃声に気がついたスタッフが、地下室に下りてきた。
いくら防音対策がしっかりされている地下だったとしても、
扉の外で待機しているスタッフに、聞こえないはずが無い。
すぐにその客はスタッフに抑えられ、なんとか最悪の事態は免れた。
客もほとんど帰った後だったし、僕も死んでない。
だから、この事件をもみ消すのは簡単だった。
たいした騒ぎにはならなかったが、僕の横腹からは赤い液体が染み出していた。
スタッフの子は救急車を呼ぼうとしてくれていたけど
僕はそれを断った。
救急車が来て、普通に病院に運ばれただけでは、多少なりと騒ぎになってしまう。
腹に鉛が埋め込まれている時点で、「ちょっと喧嘩しました」じゃ通じない。
幸い、ちょっと歩けばコネがある病院にたどり着ける。
出血しているとはいえ、傷もそんなに酷いものではない。
少し歩くくらいなら大丈夫だろうと、とりあえず応急処置だけしてもらって、僕は店を後にした。
後から僕は、せめて車に乗せてもらうべきだったと、後悔した。
そして今、僕は痛む傷口を押さえながら、壁を伝って病院を目指していた。
ガーゼでは押さえきれなくなった赤色が、うっすらと白いTシャツにシミを作った。
不味い。
非常に不味い。
思ったよりずっと、痛い。
痛みのせいで、近いと思っていた病院が何十キロも先にあるような錯覚に陥る。
あぁ、こんなところ、人に見られたら。
それこそ、騒ぎになってしまう。
面倒ごとだけは避けたいのに。
けれど、足は思うように進んでくれない。
僕は、ただ人と会わないことを願うしかなかった。
けれど、僕の願いは一瞬で消え去った。
「まるほどう…?」
懐かしい声が、懐かしい呼び方で、僕を呼んだ。
きっと……こんな状況じゃなかったら、僕は嬉しさのあまり、飛びついていただろう。
しかし、あいにく今はそんな状況ではない。
むしろ、最高の人物との再会が、最悪の再会になってしまったと言ってもいいと思う。
「ゴドー、さん……」
「クッ……どうした?まるほどう。ずいぶんふらついてるじゃねぇか」
「ちょっと、飲み過ぎまして。……それより、どうしてこんな所に…?」
「お前がボルハチっていう店に居るって聞いてな。行く途中だった」
今日、やっと仮釈放されたからな。と、何処と無く嬉しそうにゴドーさんは言った。
僕も今できる精一杯の笑顔で、それを祝福した。
「真っ先にお前に会いたくてな……こんな時間だが、会いにきちまった」
「そう、ですか……」
短く、僕はそう言った。
ゴドーさんの言葉を、ゆっくり聞いている暇など無かったからだ。
やばい。
傷口が、熱い。
ふと視線をTシャツに移すと、小さなシミが面積を広めていた。
流石に、これではバレてしまう。
「……おい、まるほどう」
「っ!!」
不意に心配そうにかけられた言葉に、僕は大きな不安を抱いた。
バレ、た……?
「そんなになるまで飲んだのか…?お前、そこまで酒強くなかっただろ?」
次にその口から出た言葉は、この赤いシミに関するものではなかった。
そこで、俺はようやく思い出した。
そうだ。この人は……
赤が、見えないんだ………
今の僕にとって、それがせめてもの救いだった。
「おいおい……本当に大丈夫かい?」
「大丈夫、です…」
大丈夫。
まだ、この人は気付いていない。
見えていない。
けれど、気付かれるのは時間の問題だろう。
一刻も早く、病院に行かなくては。
「あの、ゴドー、さん」
「なんだい?まるほどう」
「ちょっと、気分が悪いので……病院、行きます…」
「それがいいだろうぜ。じゃ、おれがおぶってやるから…」
「いや、いいんです。自分で、いけますから…」
「だが…」
「行け、ます…からっ…!」
懇願するように、けれど強引にそう言うと
ゴドーさんは何かを悟ったのか、それっきり何も言わなかった。
あぁ、あかのせかいよ
一生、彼に手を差し伸べるな
穢れたあかは
あの人に、相応しくないから。
さようなら
さようなら
あかのせかい
end.